*参加者の日記帳 - 教養音楽鑑賞シリーズ (JSB)

2004.1.17(新年祭/Neujahr)
カンタータ:「イェスよ、さあ讃美を受けてください」/“Jesu, nun sei gepreiset”(BWV 41)
コラール:「主よ、誉めまつる、新たな年」/“Jesu, nun sei gepreiset” (J. Hermann, 1593)
オルガン:J. S. バッハ「古き年は過ぎ去れり」(BWV 614);「汝に喜びあり」(BWV 615)
オルガニスト:石田一子

解説:降誕祭(12月25日)から8日目の1月1日は、ユダヤ人の慣習に従って、イェスが割礼を受け、命名された日。そこで、教会暦では、割礼祭(或いは、命名祭)が、新年祭と重なる。そのため、この日は「イェスの名」と「新年」という二つのテーマを持つ。このカンタータは、J. ヘルマン作詞の新年のコラールによる。各節14行、3節の詩。内容は比較的単純で、恵みのうちに終わることができた古い年のように、この新しい年を祝福と平和のうちに終わることができるように、という祈り。そのため、segen(祝福する)、gesegnet(祝福された)、Segen(祝福)、それにselig (祝福された)、Seligkeit(祝福された状態)などがキーワード。第5曲、バスのレチタティーヴォの中に挿入される、連祷の合唱、「サタンを我らの足下に踏みつけん」が印象的。

2004.1.24(顕現祭後第2主日/2. Sonntag nach Epiphanias)
カンタータ:「あぁ、神よ、どれほど多くの心の悩みが」/
“Ach Gott, wie manches Herzeleid” I (BWV 3)
コラール:「主よ、深き悩み」/“Ach Gott, wie manches Herzeleid” (M. Moller, 1587)
cf. 《Herr Jesu Christ, meins Lebens Licht》
オルガン:J. G. ヴァルター「あぁ、神よ、いかに多くの心の悩み」
J. S. バッハ「わが心を信仰のうちに純粋に保ちたまえ」(BWV 3/6)
オルガニスト:古屋敷由美子

解説:コラール「あぁ、神よ、どれほど多くの心の悩みが」全18節によるコラール・カンタータ。

 あぁ、神よ、どれほど多くの心の悩みが
 今、私に降りかかっていることか。
 狭い道は困難に満ちています。
 しかしその道を私は天に向かって歩まなければなりません。

この日の福音書は、カナで開かれた婚礼に出席したイェスの奇跡を語る。婚礼の席に欠かすことができないワイン(喜びの象徴)が宴席の途中でなくなった。イェスは、母マリアの求めに応えて、水を上等なワインに変えた。この日の福音書とカンタータの関係は、水を「心の悩み」、ワインを「天」、或いは「喜び」と考えると理解できる。全曲を通じて聞こえる、悩みと喜びの対照的な響きは、結局、悩みが喜びに変わって終わる。勿論、悩みを喜びに変えた者は、水をワインに変えたイェスである。

2004.1.31(顕現祭後第3主日/3. Sonntag nach Epiphanias)
カンタータ:「すべては神の意志に従い」/ “Alles nur nach Gottes Willen” (BWV 72 )
コラール:「絶えずみこころの」/ “Was mein Gott will, das g'scheh allzeit”
(Albrecht von Brandenburg, 1547)
オルガン:G. P. テレマン「わが神ののぞみたまうこと」;J. G. ヴァルター「同上」
オルガニスト:石田一子

解説:ザロモー・フランク作詞の福音書カンタータ。顕現祭後の季節は、イェスがメシアであることを、いろいろな姿で世に現わしたことがテーマ。この日の福音書は、病気の治癒者、イェスを語る二つの物語だが、病いの癒しを、すべての苦しみからの救いと、より広義に理解する。しかし、全カンタータのテーマが凝縮されている、第1曲第1行“Alles nur nach Gottes Willen”「すべては神の意志(ミココロ)に従い」が示す通り、“Alles”「すべて」、すなわち、病いも癒しも、神の意志に従うという告白。全曲を通して、悲しみと喜び、曇りと晴れ、茨と薔薇のように対照的な単語が並列され、「すべて」の内容が語られる。第2曲のレチタティーヴォは、最初の3行と最後の3行に挟まれた間のアリオーソが、“Herr, so du willt”「主よ、あなたがそうのぞむなら」と9回繰り返し、痛みが消えて健やかになることを願う。これは、福音書第一の物語の中で、らい病人がイェスに言った言葉(マタイ8章2節)。

この“du willt”「あなたがのぞむ」は第3曲第2行“Will ich mich Jesu lassen”「私は自分をイェスに委ねよう」、第4曲第2行“ich will tun”「私はそうしよう」、第5曲第1行“Mein Jesus will es tun”「私のイェスはそうしようとしている」、第6曲第1行“Was mein Gott will”「私の神がのぞむこと」と、日本語訳語は違う言葉を用いるが、に自分の“Will”「意志」を重ねて展開し、結局、神(イェス)の“Will”「意志」が救うことであることを信頼して終わる。

2004.2.7(七旬節/Septuagesimae)
カンタータ:「私は私の幸いで満足している」/“Ich bin vergnugt mit meinem Gluck” (BWV 84)
コラール:「誰か知る、終わりのいかに近きこと」/ “Wer weis, wie nahe mir mein Ende”
(A. J. von Schwarzburg-Rudolstadt, 1688). cf.《Wer nur den lieben Gott last walten》
オルガン:J. S. バッハ「愛する神にのみ支配させる者は」(BWV 642)
オルガニスト:海東俊恵
ハンドベル:石井和子、石田一子、伊藤香苗、金谷尚美、小嶋しのぶ

解説:顕現祭後4つの日曜日を数えると、教会暦は降誕祭の季節から復活祭の季節に変わる。丁度、降誕祭を迎える準備の期間として、アドヴェントの四つの日曜日があるように、復活祭を迎える準備の期間は、40日、6週間の受難節だ。ところが、さらにその前3週間、受難節を迎える準備をする。この三つの日曜日を、復活祭の前、50日、60日、70日と呼ぶ。今日は、70日前、すなわち、七旬節のカンタータを取り上げる。

この日の福音書は、イェスの天国のたとえ話しの一つで、日雇い労働者の労賃支払いをめぐる、雇い主と労働者の間に起こったトラブルである。夕方労働が終わったとき、1日の労賃1デナリオンで早朝雇われた労働者は、朝9時、12時、午後3時、5時に雇われてきた労働者が1デナリオンづつ支払ってもらっているのを見て、自分は約束以上の労賃を払ってもらえるものと思ったが、やはり1デナリオンしか支払われなかった。そこで不公平だと文句を言った。すると雇い主は、約束通り払ったのだがから何が悪い、と答えたという。勿論、雇い主は神、労働者は人間だ。イェスの天国のたとえ話しに登場する主人は、人間の常識で考えると、いつでも横暴である。

カンタータの第1曲第1行:“Ich bin vergnugt mit meinem Gluck”「私は私の幸いで満足している」に、神から与えられた「1デナリオン」で満足する、という告白がある。ソプラノが独唱する、第1曲と第3曲のアリアが、満足、感謝、喜び、平安を歌うのに対して、第2曲と第4曲のレチタティーヴォは、自分が評価されなくても、わずかな報酬でも、よしとすると語る。第5曲のコラール合唱は、G. ノイマルクの“Wer nur den lieben Gott last walten”の旋律で、「神のうちに満足して生き、悩みなく死ぬ」と歌う。

感想:オルガンはソロも危なげない安心できる演奏で、曲がもっと長かったら良かったのに、と思った。コラールの伴奏は歌いやすかった。ハンドベルはアンサンブルの完成度にますます磨きがかかり、プロのような安定感のある演奏に驚きだった。一子先生の編曲の和声も充実していて美しかった。皆さんのベルを振る姿が一音入魂という感じで、かっこいい。(A.M.)

2004.2.14(エストミヒ/Esto mihi)
カンタータ:「イェスは12弟子を呼び寄せた」/“Jesus nahm zu sich die Zwolfe”(BWV 22)
コラール:「主なるキリスト」/“Herr Christ, der einge Gottessohn” (E. Kreuziger, 1524)
オルガン:J. S. バッハ「主なるキリスト、神の独り子は」(BWV 601)
オルガニスト:金谷尚美

解説:復活祭の前50日の五旬節は、この日のラテン語の入祭唱(詩篇31篇3節)、「私の・・・となりたまえ」により、「エストミヒ」と呼ばれる。次週から受難節になり、その間、ライプツィヒではカンタータを演奏しなかった。このBWV 22 は、BWV 23 と共に、1723年2月7日のエストミヒに、ライプツィヒのカントル試験曲として初演された。この日の福音書(ルカ18章31〜43節)の前半に基づいてBWV 22、後半によってBWV 23 が作曲されている。BWV 23 が荘重な雰囲気であるのに対して、BWV 22は受難をテーマにしつつも、イェスに従う喜びが表現されている。

第1曲は、受難曲を先取りしたような構成で、「イェスが12弟子を呼び寄せて言った」と福音史家(テノール)が語ると、イェス(バス)が「エルサレムへ上る」と受難を予告する。しかし、その意味が分からない弟子たち(合唱)は困惑する。第2曲から「私」が主語になって、弟子たちは肉の思いに囚われてイェスの受難を理解しないが、私はあなたに従う覚悟をしたから、ゴルゴタへ引いていってくださいと願う。イェスに従うことができるように、第4曲は「霊にあって死」んで自分が変わることを願い、第5曲は「あなたの慈しみによって死なせ」とコラールを歌う。